ジョン・マエダの考える「デザインを超えるもの」

 Wiredの記事『ジョン・マエダの考える「デザインを超えるもの」』が、とても興味深かったので、ちょっと思考を絡めてコメント入れつつ、メモしてみる。

”いま彼らが求めているのは、自分の価値観を思い出させてくれるような方法──つまり、この世界のなかでどのように生きることができるか、どう生きるつもりか、どう生きるべきかという価値観を思い出させてくれるものである。”

 これは内容としてはすごく同意。

”いま、イノヴェイションはデザイン以外のところで生じる必要がある。それを簡単にいうと、アートの世界ということになる。”

 という1文はちょっとよくわからない。理由は後ほど。

”「デザイン」と「アート」を混同してはいけない。これらは異なるものであり、その違いは重要だ──デザイナーが生み出すのが「解決策(答え)」であるのに対し、アーティストが生み出すのは「問いかけ」である。

 このアートの解釈は一つの解釈として、とても好き。そしてなるほどと思える。確かに何にせよ、デザイナーが生み出すのは「解決策(答え)」であるに違いない。アートについては昔ジェームス・タレルも同じようなことを言っていたのが、師・植島啓司の著書「聖地の想像力」にも書いてあった。「いや、僕はアーティストだから何も証明はしない。アーティストはもともと解答より疑問の方に興味を持つものでね。…」自分の抱いた疑問を何かのかたちとして作り出し、示す。僕はアートの作品に込めた意味(伝えたいこと)と言うのがあまり大事だとは思っていない。そもそも作品自体でそれが伝えられないのはアーティストの問題だし、背景がわかったから感動するというのは何かどうも作られた感動のように感じてしまう。極論でいうと作品と対峙した時に作品の意図とは全く関係ないところで自分の思考が色々と勝手に結びついて、「なるほど!」と思って感動することは、作品の意図と完全に違っていようがその方が尊いと思う。生み出すのが「問いかけ」というのはそういうことなんじゃないか。

 で、その視点に立つとイノヴェイションがアートの世界で生じるというのは、よくわからない。生じるのはイノベイション自体ではなくて、そのキッカケなのではないのか?

”アーティストとは、他の人間にとってはまったく意味をもたない大義、けれども自分にとってはそれがすべてという大義を追求するために、自分自身の安寧や命さえ捧げることもめずらしくない人種のことをいう。”

 自分のことをアーティストと言っている人達は、本当にそうあって欲しいと思う。

”物事の不完全さが明かされることがますます多くなっている世界のなかでは、そうした価値観を堅持し続けることはわれわれにとって最も重要なことである。”
”そしてまた、単なるアルゴリズム(計算処理)から生まれたものではなく、自分たちの如く人間の精神から生まれてきたものを買いたいと思う。”

 ここはこれからの時代に大事になってくる部分だと僕も思うし、そう信じてる。
正直、言葉の定義なんて、時代とともに変わっていくものなんだから変にこだわったって仕方なくない?というのは、それはその通りだなとは思うんだけど、自分の中では自分がこだわりをもっている言葉の定義が抽象的な場合は、どういう意味で使っているのかは、なるべく定義しておくようにはしていたいと考えてます。