演劇1

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演劇1(公式サイト
日時:2012.11.09
場所:シアターフォーラム
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 この映画に興味を持ったのは、青山ブックセンターで小林さんのTypeTalksを予約しようとしてサイトにアクセスしてこの「気鋭の映画作家と哲学者が、〈創造〉〈芸術〉〈現代〉と切り結ぶ」というイベントを見た時だった。國分さんの「暇と退屈の倫理学」があまりに面白かったので興味を持ったんだけど、映画を観た今、どう考えてもこのトークイベントは行っておけば良かったと後悔している…。

 「演劇1」「演劇2」は劇作家・平田オリザと主催する青年団を追いかけたドキュメンタリーで、とりあえず映画の興味をそそる様な映画評なんかは公式サイトからのリンクで内田樹さんが書いたりしているのがあるので、そういうのを読んでみてもらった方がよっぽど良いんじゃないかと思います・笑。まぁこれは主観のメモなので。

 言葉としてはうろ覚えなんだけど「演劇で人を幸せな気分にしようなんて思ったことはない」みたいなことを言っていて、それはとても共感できた。僕自身アート(芸術)と言われるようなものに単純な幸福感を求める気持ちはほとんどなくて、何かをみる時に求めているのはやっぱり「…凄いな」という畏怖感みたいなものなので。それはたぶん工芸とかデザインとかも同じで全部見方としては変わらない。他にも(これらも結局うろ覚えだけど)「演劇はイメージを観客と共有させられるかどうかだけ」「基本的にはほとんどのよくできた物語には起・承・転・結があって、その個々の中でも更に起・承・転・結があるものだけど、演劇では毎度幕を下ろす訳にはいかないので、その中から重要で伝えなければいけない場面を選び出して演じて、その間の物語を観客がイメージでうまく補間できるようにしなければいけない」「演劇は推理小説のように最後まで着地点がわからない話は向いていない。なるべく早い段階でその物語のシチュエーションや話の筋を観客が理解でき、結の部分に詰められた情報は何となくわかっているけど話が進むくらいの方が良くできた演劇であることがほとんど。ロミオをジュリエットが最後に死ぬことはほとんどの人が知っていると思うけど、みんなそれがわかっていても演劇を見に行く。それは最終的な結果が大事なわけではなく、むしろその演劇で表現されるプロセスの方こそが大事だからです」みたいな言葉は心に残っている。そんな風に聞かさていると一回実際の演劇はみてみたいなとは思ってしまう。個人的にすごく良かったのか劇団の代表や劇場の支配人としての仕事の部分。リアリストでいなければならない部分をみると現実味が増すので、すごく共感を覚える。

 最後の方で言っていた「ホントの自分」についての話も面白かった。「人を例える時にタマネギをよく例に出す」「(((())))」「タマネギはどこからが皮かというのは明確に決まっていない。人の人格も同じようなものでは?色んな層が重なって一人の人間。どこからがホントの自分みたいなのはない」「子供がひきこもりになるのは大体中学〜高校で、今まで良い子だった子が多い。そして、良い子を演じるのに疲れたと言う。僕は演者なのでそういう都合の良い時だけ演じるという言葉を使ってほしくないと言う」「社会のでると大人は場所によって色んな役割を演じ分けて生きている。会社員・旦那・お父さんとか。でも子供のことになると、それがわかっているはずなのにホントのあなたはそうじゃないでしょ?というような諭し方をしたりする。ほとんどの場面でホントの自分を出したら大変なことになるのはわかっているはずなのに」というようなことを語っていた(例にもれず発言はニュアンスでうろ覚え)。

 もともと自分の中では、何がホントの自分なのか定義なんてできないと考えてた。役割であってもキャラであっても一時的に作ったものでなくて日常的に演じているのならホントの自分であることに変わりはないし、自覚しているの自分だけがホントの自分とも言えないと思うし。でも帰りながら自分のことで考えてたら、ふと、恥ずかしがり屋ってところだけはどうしてもどの状況でも抜けない気がしてきた。状況に関係なくいつも何かあったらぶつかる壁なので、ホントの自分と言えなくはないのかもしれない。友達が平田オリザの著書も面白かったから貸してくれるというので、読んでみたい。

 後、他の感想としては、予告編でやってた「百万回生きた猫」と「情熱のピアニズム」はもう予告編観てるだけで泣きそうだったので絶対観に行こうと思ったのと、志賀廣太郎が声からかっこ良すぎるのと、映画として長いのはほとんど稽古練習のやり直しで同じセリフの反復が繰り返されるせいだと思うんだけど、それに気付いてしまうと途中でイラチな部分が出てしまって、ちょっとはよ進めと飽きた、とか。もちろん作品としては意図的で、その編集が内容に独特な重みを与えてるというのはわかるんだけど…。

[関連URLメモ]
平田オリザが勝手に寝てしまう〈「演劇1」「演劇2」想田和弘に聞く1〉
http://www.excite.co.jp/News/reviewmusic/20121019/E1350576580932.html

ウズベキスタンーイスラエルの旅行メモ

とりあえず、いつかまた行くかもということで、参考のためにメモ。
チケットがサーチャージ込みで11.6万円だったので、旅行全体で18-9万くらい。まぁ一週間と期間短くて保険かけつつなので、そんなもんかなーと思う反面ウズベキスタンはちょっとかかりすぎだなと反省もあり。

ウズベキスタン
場所:サマルカンド、タシケント
期間:2012.10.26-10.29(3days)

・換金はけっこうどこでも誰でも替えてくれるという感じっぽい。法律がどうなってるのか不明…。
・レートは150ドルで300000シムで換金
タシケント空港>乗り合いタクシー広場 10ドル
タシケント>サマルカンド:乗り合いタクシー 60000スム(30ドル)
・Bahodir 1泊目25ドル、2泊目12ドル
タシケント>サマルカンド:電車1stクラス 82000スム(41ドル)
・Gulnara Hotel 1泊25ドル
・食費、土産やら 100000スムくらい

=その他メモ=
できる限りのリスクヘッジと移動費も合わせてだけど、全体で3日間で諸々含め220-230ドルも使ってしまったのでちょっと使いすぎた感じがする。電車も1stクラスしか空いてなかったから仕方なかったけど、もう少し前に買っとけばよかったなと。3日で宿代とタクシー代は別途ドルで払ったことを考えると替えすぎた。札束で余ってる…。次中央アジア行くなら、もう一度というよりは、キルギスとかパキスタンの方に行きたいかなと思ってる。


■イスラエル
場所:エルサレム、エン・ゲティ、テル・アヴィヴ
期間:2012.10.29-11.1(3days)

・街中にCHANGEはどこでもある感じ。全体の物価としては日本より少し高いくらいかも。
・持っていったドルをちょこちょこ替えてたけど、200ドルくらいを換金。レートは空港が1ドル3.2シュケルで、街中は3.8シュケル。こちらは細かめに替えてたのでほぼビッタリ使いきった
・ベングリオン空港からエルサレムまでエゲットバスで24シュケル
エルサレム1泊目Petra Hostel 70シュケル、2泊目Hebron 60シュケル(個別ロッカー1日5シュケル、デポジット20シュケル
エルサレムからエン・ゲティ往復で63シュケル
エルサレムからテルアヴィヴ市街22シュケル
・街中のバスとエルサレムの路面電車が一回6.6シュケル。結構高め。バスはチケットに書いてある時間内であれば、チケットを差し出してパンチで穴を開けてもらうので1回乗り換えができる
・テル・アヴィヴ Sky Hostel 90シュケル
・早朝マゲン・ダヴィド広場からハガナー駅までLine16のバス、そこから電車でベングリオン空港は電車が来るのが遅かったので1時間弱かかった。もしかしたらハガナー駅からシェルートとかの方がよいのかも
・チェックインの列で1人1人出国審査のようなものがあり、普通の空港より時間がかかるので3時間くらい前に行くのが望ましい

=その他メモ=
イスラエルは物価が高めなので、使った金額としてはまぁまぁ抑えた感じになったかと。結局お土産にけっこう使った。ファラフェルのビタサンドにバマってしまったのと、ひと晩はアラブ系の大衆料理屋に行ってしまったので、もうちょっとちゃんとしたイスラエル料理を食べてくれば良かったなと思う。シャクシュカを食べてみたいので仕方ないから都内で探そう。シェルートが使い方イマイチわからず、一度も使わなかったので一回は試してみれば良かった。
エルサレムの宿は次行くなら新市街のJerusalem Hostel & G.Hは満員で泊まれなかったけど、キレイさと雰囲気も良さげだったので泊まってみたい。Petraは次は泊まりたくないけど、Hebron はまた泊まりたいなと思う。
イスラエルはほんとにまたいつかもう少し長く行きたい。テル・アヴィヴは完全見足りないし、美術館とかももっとも見たいし、ハイファとかエイラットとか、ヨルダン側ならペトラも行きたいし、シリア、エジプト、トルコ、キプロスとか…行き来に難はあるだろうが、隣接してる国も興味のあるところばかりだ。

ジョン・マエダの考える「デザインを超えるもの」

 Wiredの記事『ジョン・マエダの考える「デザインを超えるもの」』が、とても興味深かったので、ちょっと思考を絡めてコメント入れつつ、メモしてみる。

”いま彼らが求めているのは、自分の価値観を思い出させてくれるような方法──つまり、この世界のなかでどのように生きることができるか、どう生きるつもりか、どう生きるべきかという価値観を思い出させてくれるものである。”

 これは内容としてはすごく同意。

”いま、イノヴェイションはデザイン以外のところで生じる必要がある。それを簡単にいうと、アートの世界ということになる。”

 という1文はちょっとよくわからない。理由は後ほど。

”「デザイン」と「アート」を混同してはいけない。これらは異なるものであり、その違いは重要だ──デザイナーが生み出すのが「解決策(答え)」であるのに対し、アーティストが生み出すのは「問いかけ」である。

 このアートの解釈は一つの解釈として、とても好き。そしてなるほどと思える。確かに何にせよ、デザイナーが生み出すのは「解決策(答え)」であるに違いない。アートについては昔ジェームス・タレルも同じようなことを言っていたのが、師・植島啓司の著書「聖地の想像力」にも書いてあった。「いや、僕はアーティストだから何も証明はしない。アーティストはもともと解答より疑問の方に興味を持つものでね。…」自分の抱いた疑問を何かのかたちとして作り出し、示す。僕はアートの作品に込めた意味(伝えたいこと)と言うのがあまり大事だとは思っていない。そもそも作品自体でそれが伝えられないのはアーティストの問題だし、背景がわかったから感動するというのは何かどうも作られた感動のように感じてしまう。極論でいうと作品と対峙した時に作品の意図とは全く関係ないところで自分の思考が色々と勝手に結びついて、「なるほど!」と思って感動することは、作品の意図と完全に違っていようがその方が尊いと思う。生み出すのが「問いかけ」というのはそういうことなんじゃないか。

 で、その視点に立つとイノヴェイションがアートの世界で生じるというのは、よくわからない。生じるのはイノベイション自体ではなくて、そのキッカケなのではないのか?

”アーティストとは、他の人間にとってはまったく意味をもたない大義、けれども自分にとってはそれがすべてという大義を追求するために、自分自身の安寧や命さえ捧げることもめずらしくない人種のことをいう。”

 自分のことをアーティストと言っている人達は、本当にそうあって欲しいと思う。

”物事の不完全さが明かされることがますます多くなっている世界のなかでは、そうした価値観を堅持し続けることはわれわれにとって最も重要なことである。”
”そしてまた、単なるアルゴリズム(計算処理)から生まれたものではなく、自分たちの如く人間の精神から生まれてきたものを買いたいと思う。”

 ここはこれからの時代に大事になってくる部分だと僕も思うし、そう信じてる。
正直、言葉の定義なんて、時代とともに変わっていくものなんだから変にこだわったって仕方なくない?というのは、それはその通りだなとは思うんだけど、自分の中では自分がこだわりをもっている言葉の定義が抽象的な場合は、どういう意味で使っているのかは、なるべく定義しておくようにはしていたいと考えてます。

民藝展とバーナード・リーチ展

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民藝展(無料)、バーナード・リーチ展(800円)
日時:2012.9.9
場所:日本橋三越
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 日曜出勤。13時から会社で害虫駆除の薬を巻く連絡が来てたので、午後いちくらいで仕事を切り上げて会社からテクテク八重洲の方に歩いていた。高島屋の横を通るときにふとみると「バーナード・リーチ展」と「民藝展」とあって、日時も9/10までだったので、これは行っておかねばと駆け込んだ。

 とりあえず手前でやってた「民藝展」。これはよくあるデパートの8Fとかの催会場で各地の民藝品とか集めて売りまっせみたいなやつだったんだけど、すごい楽しかった。器は本当に駄目です。基本的に家にはほとんど白い柄なしの器を置くようにしている。どうせ割ってしまうんだろうなと思ってしまうのでいいものを買っているわけでもない。少し良い感じのものをみるとやっぱり欲しくなってしまうんだけど、それを買ってしまうと他の皿達が全部陳腐化してしまうという不安…。

 で、「バーナード・リーチ展」。そういえばこれまでリーチの作品は確か大山崎美術館で河井寬次郎とかと一緒以外にまとめてみたのははじめてだったけど、さすがにいっぱい作ってるんだな。1953-4年くらいに九谷で作った四角い絵皿が一番気に入った。民藝運動ってアーツ・アンド・クラフツの流れで考えても自分としてはすごく理想に近いんだけど、陶器に関しては技倆がうまく理解できなくて何だかうまく自分の中で消化できない。書道とか、イラストとかに似ている感じで技倆というより好きかどうか判断したい部類なんだけど、使うものとして考えてしまうと料理がうまくみえるかとか、割れたりとか大丈夫とか考えてしまうので、なかなかそれだけでは買えない。でも飾るために買うというのはあんまり考えられないし。陶器は家族とかできたら興味持ちはじめる気もする。

館長 庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技

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館長 庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技
日時:2012.8.19、2012.8.26
場所:東京都現代美術館
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 ものを作る人はみんなみておいたほうがいいんじゃないか?と言えるほど、行って良かった展覧会だった。珍しく二回も行った。一回目はあまりの濃度にエネルギー全部持っていかれてしまって、もともとメインで予定してた『Future Beauty 日本ファッションの未来性』に行けずに帰ってきた。翌週はFuture Beautyのみの予定だったけど、残しておきたかった成田亨の文章を写したかったのもあり再度。

 最初の展示「人造 原点Ⅰ」でまず心を持っていかれたのは、小松崎茂のドローイング。60〜80年代のプラモデルのパッケージの絵とか、僕の年代くらいであれば、子供の頃玩具屋さんにいっぱい置いてあったと思うので「おぉ、懐かしい!」とノスタルジーに浸れる絵だろう。プロダクトデザインを勉強してた時、小松崎さんの絵のテイストをコピックレンダリングでもう少し近代的に落としこんだ感じにできんかなと色々試してみてたけど、結局納得いく感じにはできなかったのを思い出す。
 他に気に入ったのはマグマ大使のロケットの模型と、マイティ・ジャックの作品全般。マイティ・ジャックは全然観たことないので観てみたいと思う。

 次の「超人 原点Ⅱ」の始めにあった成田亨の『みやころさん』90年秋号に掲載されていた文章にすごい感銘を受けた。図録に載ってるといいなと思って買ったけど載っていなくて、一度はまあいいかと思ったけど、やっぱりあの文章は自分の中に残しておきたいと思って、翌週もう一度書き写しに行った。成田さんはドローイングもすごく良い。
 ウルトラマンシリーズの乗り物模型を集めてたコーナーも良かった。赤とシルバーの機体。乗り物のドローイング。その後、ヒーロー達のマスク、着ぐるみ、ジオラマ模型。ガッシュコピック、FRP、金属、ラテックス、バルサとか、最近模型作りはめっきり離れていて全然使わないので、懐かしい素材で自分では全然できないだろう細部まで作りこまれた造形物が次々と並べられていると鳥肌が立つ。基本的に僕は、何にしても人の手が入って細部に気を配られたものに出会った時や気づいた時に感動をする。結局行き着いたところ、アートとかデザインとか作家的とか商業的とかそういう枠は関係ないらしく、映像とかウェブとかも同じで、只々こんなところまで気を配って手を入れてるのか!ということに感動する。この展覧会はそういう造形物が一同に集まってる。

 『巨神兵東京に現る』は、まず完成映像を観てから、その解説というような流れで展示は進む。個人的に観る前にちゃんと思っておきたかったなというのが、どうやらほんとにCGはなく、アナログ技術で構成されているということになっているっぽい(自分の中でCGと特撮の完全な区切りには自信がないけど)。そして様々継承されたり、編み出される特撮の手法が本当にいちいち面白い。
 正直見てる側がCGかどうか判断できないレベルだと、実はあんまり意味ないんじゃないかなと思ったりもするんだけど、メイキングをみた感じだと何より作っている側のメンバーのモチベーションとか経験として詰まっていく思いとかが全然違うんじゃないかなと感じた。ものを作ることの感覚みたいなのが本当に身に染みていくんだろう。1〜4次元まで映像という目的に向かって作られるものづくり。途中の作品は全て骨肉。

 最後に下のが書き写した成田亨の文章の序文。この先も興味深いことが書かれていて、色々考えさせられる。

” 私は、人間は進化しないものだと思っています。進化しないで変化していくものだと思っています。食を求めるために働き、恋に喜び、失恋に泣き、友と語り、嫌な奴と働き乍ら、一人一人は成長していきますが、人類そのものはメソポタミアの文明開化以来同じことを繰り返しています。
 しかし科学は進歩します。日進月歩、昨日のものは無価値です。科学技術の進歩は生活を変えます。革新的な技術の発達の中で、人間は人間全体の発展進歩だと錯覚して、ボケてゆくのです。堂々として生きる本来の人間の姿を忘れてゆくのです。
 哲学は鳴りをひそめ、宗教も静まり、コンクリートとガラス状の現代建築に追い出された彫刻はディスプレイ化し、絵画はデザイン化して、生存の場を確保しています。”