死なれるということ

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仏教文化講座『死なれるということ』鷲田清一
日時:2012.8.25
場所:築地本願寺
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※個人的なメモなので、勘違い・思い込み等々も含まれていることはご了承ください

  • 死というのは自分の死を第一に考えがちだが、大事な人に死なれるということが原型なんじゃないか?
  • 自分の死というのはそこで終わるので経験・体験としては持てない。人にとって生きているうちに体験するリアルな死というのは他人の死であり、死なれるという体験。
  • 震災や自殺など、喪失の経験。死なせてしまったという経験から、そういうことを抱えたまま生きていく人生を歩むことになる人がいっぱいいる。遺族同士で会を作ったりして助け合っている。
  • 阪神大震災以降、そういうことについて強く考えるようになった。
  • 英語には「死なせる」「死なれる」という言い方がない。他動詞であれば可能だが、dieは自動詞なのでうまく言えない。
  • 日本語の変なところとして、自動詞なのに受動態がある。「泣かれる」「女房に逃げられた」「先立たれる」「引(退)かれた」など
  • 「産まれる」というのはおかしな言葉。昔は「産まる」とも言っていた。「産まれる」という言葉が受動態だと認識している人はあまりいないように感じる。
  • 「産まれたての赤ちゃん」産みたての赤ちゃんとは言わない。卵は産みたてと言う。何故だろう?ひよこはどうだと思いますか?(会場:挙手では産まれたてと思う人が多い)ひよこは「孵りたて」が正しい・笑。
  • 日本語は弱い立場の人を代弁する言葉の使い方をする。「監督に傍に立たれる」とか。
  • 生まれた時の感情表現は渾然としていて、喜怒哀楽で分けられない。感情をどう表すかは自分の中から生まれるものではなくて、表情も誰かに教わっている。そう考えると自分の感情というものも元は誰かから贈られたものなのではないか?
  • 死と闘うと言うが、多くの人は自分のために死と闘っているのではないように思う。残していく人達を案じて、胸が張り裂けそうになっている人を多くみてきた。死の恐怖、死の不安というけど、自分以外への事のほうが大きいんじゃないか?
  • 外国の友人が、戦争から60年以上立っているにも関わらず毎年遺骨収集に行く人達が少なからずいるということを聞いて、日本人に対して不思議だと感じるという。
  • 友人の社会学者・内田隆三氏によると、日本人は死を生体・屍体の2分法ではなく、そこに死者を加えた3分法で考えていると言う。死者というのは死してなお生きている状態、語らいの相手として生まれ変わる状態。遺骨がなければ屍体から死者に進めないので、気持ちをそこに持っていけないという感覚。
  • 自分も父親がなくなった時に体験したが、日本では人が亡くなった時に49日まで色々なテーマに分けて喪を行う。最初は近親や親戚だけ、次にお世話になった人、その次に近所、職場の人のように。建前としては、死んだ人をちゃんと浄土へ送るための儀式だけれども、実は死なれた人のための儀式なのだと思う。周りの人間も最初は故人への哀しみに暮れているが、日が立つ毎に笑い声なども出始めて、久しぶりにあった人達と近況などを報告しあったりするようになっていく。お坊さんもそのことはわかっていて、回を追う毎に話が講話から世間話などに変わっていく。そういった儀式を経て、故人が「死者」になる。→心の相談相手として生まれ変わる
  • 自分も回数は多くないけれど、人生に何度か本当にどうしたら良いかわからなくなった時には縋ったことがある。
  • 本を読むことも近い感覚かも。その人の本を読むことでその人の知識や考え方を頭の中に入れて、悩んだ時に「あの人だったらどう考えるだろうか?」など頭の中で語らいの相手として取り込む。そのために本を読む。
  • そこにいるだけでいいということについて。こういう時に例として思い出すのは乙武洋匡さんの話。生まれた時に手足がなかったため、母親は会わせることを1ヶ月見合わされた。母親がはじめて自分の子供をみた時に発した言葉が「可愛い」だったらしい。その時やっと自分(乙武さん)は生まれたんだと思う。
  • 自分の勲章・プライドのこと。多くの人は自分で作り上げて来たものを思いがちなのではないか?あくまでそれは相対的なもの。本当は人から与えられるものでは?
  • スポーツは勝つ事が大事なゲームではなくて、負けることを体験させるゲーム。例えば甲子園などは99%以上が負ける。そして上に行くほど負けの意味合いは大きくなり、決勝での負けは心情としてはどの負けよりも大きな負けの経験になるはず。
  • もっとも尊く持つべきプライドは、人から大事にされたという経験なのではないか?文句なしに大事にされているという経験。
  • 40年ぶりくらいに母校の小学校に行ったら、驚くほど良い作りだった。子供が一日いるところだからという心意気で良い物が作られていたんだと思う。子供が大事にされていた。誰の家よりも良い作りだったのではないか?
  • 今は他人から「いるだけでいい」と言われるような場所が本当に少なくなった。それが生き難さにつながっているんじゃないか?
  • 郊外というのは働いている大人の姿が見えないところ。昼間は主婦と子供だけの消費の街になってしまっている。
  • 今は子供が労働をするところがなくなってしまって、試験だけがある。評価というのが当たり前になってしまった。
  • そもそも試験というのは存在の要不要を否応なしに決めてしまうもの。あなたの存在は不要だと決めつけられてしまう。
  • 子供の頃からそういう事ばかりに晒されているというのは如何なものなんだろうか?評価というのは「何をしたか?」のチェックで、「人の話をちゃんと聞いてあげた」というのは社会ではほとんど評価とはしてもらえない。「いるだけでいい」という場所がやはりない。


[思うこと]
 鷲田さんの話をすごく久しぶりに聴いたけど、いつもながら興味深くて共感する部分も多い。話の内容がもし袈裟着てたら哲学者というか偉いお坊さんだなというような・笑。まぁ、そこまでいくと同じようなものなのか。場所が場所だっただけに何かちょっと新興宗教の教祖の話を聴きに行ったような錯覚すらしてしまった…。

 さて、内容として興味深かったのはまず「日本語には自動詞なのに受動態がある」という話。でも最後に質問で英語でも「生まれる」は"I was born"というので似たような感覚もあるのかなと思うのですが...?というような質問が出てきてあやふやになってしまった気がするけど、これはちょっと興味深いので、また会社で英語とか中国語ネイティブにも聞いてみたい。

 「死者」の話も。これは鷲田さんも話としてはけっこう前からしているので、テキストでは読んでたことだけど、実際には初めて聴いた。自分には特定の信教と言えるようなものはなくて、唯一どうしようもないときに縋るのは、自分に親しい死者だ。祖先とか特におじいちゃん、おばあちゃんは少なくとも自分の子供(両親)、孫(僕ら)のことは、何があっても助けるように力を貸してくれると信じている。この先いつか親が亡くなった時にはやっぱり第一に縋る死者になるのだろう。そう考えると、何の疑いもなくそれだけ愛されていると信じられるのは、自分はとても恵まれて育てられてきたんだなと思う。
 で、少し話を戻すと、鷲田さんの云う死者の感覚にはすごく共感したんだけれど、これが日本人の特徴的な考え方という風には考えられなかった。どこの国の人であれそういう行動はあるんじゃないかと思っている。もしかしたら、ここは鷲田さんも日本人云々ということで話をしているつもりはなかったのかもしれないけど。

 評価と生きにくさについてもすごく思うところはある。子供の頃から試験ばかりで評価に晒されるというのは確かに生きにくいだけだし、大事なものを失ってしまう気は本当にしている。

 プライドの話にすごく感銘を受けた。捉え方が少しシフトしている気はするけど…。人から大事にされたという経験をプライドとして考えるというのはちょっと心に留めておきたいと思う。

[関連URLメモ]
生の交換、死の交換
http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/eth/OJ1-1/washida1.html

鷲田さん関連で誰かの同じような内容のブログ記事
http://nigasou.blogspot.jp/2007/06/webweb13.html
http://reliance.blog.eonet.jp/default/2011/04/post-a805.html
http://tsurusako-d.jp/blog/?p=2100

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