Marc NewsonとApple Watchについて

http://jp.techcrunch.com/2014/09/10/20140909meet-the-apple-watch/
Apple Watch登場 - TechCrunch

何か昔IKEPOD(マーク・ニューソンが創設した時計メーカー)で四角い腕時計あったような気がする…と思って調べたら、すでにまとめられてた。デザイン要素がちょっと似過ぎでは?というほど似ている。
【まとめ】Apple Watchにはマーク・ニューソンのDNAが流れている。彼の過去作品と比較してみたww #applejp | Blog!NOBON+

AppleWatchは、まわりのTwitterFacebookの投稿をみていると落胆したような意見も多いけど、個人的には、いい意味で期待を裏切られた感じで心地よかったと思っている。

もちろん、iPodiPhoneのようにバカ売れするような事態はあんまり想定できないけど、時計というジャンルの枠の中で考えると、けっこう魅力的な製品なんじゃないだろうか。見た目はそれなりにラグジュアリーで、価格は4万以下、ヘルスケアの機能も付いて、先端のテクノロジー体験も手に入れられる。
そう考えると、デザインを普段使い寄りに持っていくことは良い戦略なんじゃないかと思う。特にレディースとして考えると秀逸だなと思った。事前に出ていたTodd HamiltonのFuelBandみたいなデザインよりも、多くの女性が着けて歩くイメージが想像しやすい。
http://cdn.macrumors.com/article-new/2014/02/iwatch-concept-nike.jpg

またプロダクトデザインはよくプロトタイプや写真、映像で見た時に「いいな」と思っても、実物が何かちゃちかったり、細部が最終的に残念に変更されていたりすることも多いけど、Appleはその点ではあまり心配がないし、AppleWatchは実物をみると、おおっ?てなりそうな気がしていて、楽しみにしている。実物が出回ってくると評価がまた変わってくるんじゃないかなと思っている。

マーク・ニューソンは、昔からデザイナーとして好きというよりは、スタンスに対する憧れがあった。とにかく関わるフィールドが広くて、どこでもマーク・ニューソンらしさが表現されたデザインを出してきていたから。
その後さらに興味をもったのが、元々の専攻がジュエリーデザインだったということを知ってからだった。ミクロ側で身につけるものというレベルからデザインに興味を持って、この世界に入っていることは、とても興味深い。
Droog Designを立ち上げたハイス・バッカーが主催するコンテンポラリージュエリー財団chi ha paura?(現chp...?)のコレクションで、マーク・ニューソンの作品を見た時に知った。
http://shop.chpjewelry.com/marc-newson

そのことを知ってからマーク・ニューソンの作品を見直してみると、確かにデザインが身体側からの感覚でデザインされていると思えてきた。建築側などから入ってきたデザイナーに感じることがある頭が先に動いているようなマクロ視点的な合理性は感じられなくて、手が先に動いているというか、かたちの詰めに合わせてデザインロジックも当てはめていっているようなイメージ。
これからモノのインターネット化が進んでいく中で、Appleが身体側の視点からデザインを考えることができて、ファッションの枠には全く収まらないデザイナーであるマーク・ニューソンを巻き込んだのは、やっぱり興味深い。

ちなみにマーク・ニューソンは、味の素の100周年記念瓶のデザインとかもしている。
「味の素®」発売100周年記念 「味の素®マーク瓶」50g新発売! 2009年8月24日(月)より全国で発売開始

踊る民族誌映像 〜バリ島民族誌映画作品上映会〜

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踊る民族誌映像 〜バリ島民族誌映画作品上映会〜
日時:2014.3.16(日)16~19時
会場:クリエイティブシェアスペース ♭(FLAT
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【上映作品】
『タクスゥ -魂の踊り子』仁田美帆
『LEGONG: Dance of the Virgins』アンリ・ド・ラ・ファレーズ
【トーク】
伊藤俊治 仁田美帆 村尾静二

以下トークメモだけど、聞き入って途中でメモ取り忘れたこともあり少なめ。

  • チュニックさんの来歴
  • おどり→ご飯くれる→お母さんがおかゆ屋を始める
  • 生まれて直ぐお母さんが「小さいから」とチュニックさんを捨てた
  • お父さんが怒って探しに行く→見つけて、名前が「チュニック(小さいの意)」になった
  • ジョゲ・ピンギタン→1人で6役ほどこなすチャロナランの一人劇
  • タクスゥ:降りてくる力。一回性。
  • 継続 維持? して行く中での一時性→映像とダンスで共通のこと
  • ダンスの儀礼性、宗教性→映像は一回性がなく固定化される。
  • ハワイのフラダンスなどは記録させない。
  • 一回性だけを記録として留めることを認めない。
  • 踊りは一種の身体記憶装置→バリは古来より「書かれたもの」を信用していないように思う
  • ダラン:影絵を行う人
  • ジャン・ルーシュ曰く「右目と左目がある」右目はファインダーを通した目。左目は現実の目。
  • バリの踊りは、衣装や体の動かし方が反自然的な感じがする。
  • アンリ・ド・ラ・ファレーズ『レゴン 処女のダンス』世界最初のカラー映画。
  • 1932-34。ディズニーがテクニカラーを独占した。
  • 『レゴン』は1935年に撮られた映画。
  • 監督のアンリ・ド・ラ・ファレーズはグロリア・スワンソンの旦那。
  • バリ島は世界で唯一(と言っていいと思う)公開で火葬をしている。
  • 高い火葬の組は、宇宙軸を体に移し替えていくような意味?
  • 『レゴン』30年代のツーリズムとの絡みで制作された映画ではないか?

→観光的な絡みも気になるところ

ベイトソンは映像によって、それを伝えられるのでは?と考えた
 映像人類学

  • この2つの映画は、映像と身体について考えるヒントになるのでは?

統合する力へ アートと学びの場の未来

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Calo Bookshop & Cafe 10周年記念シンポジウム
日時:2014.3.15
場所:芝川ビル モダンテラス(芝川ビル4F)
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※個人的メモです。誤解釈や記憶違いがあることことはご理解の上

1.物質と記憶 -写真がつなげる世界-対談:港千尋、畠山直也

1986.4.26 チェルノブイリ原発事故
1996.4.26 港x畠山 IMI 第1回レクチャー 物質と記録

  • 震災の数年後で、まだプロジェクタやデジタルビデオカメラもなかったところは現在と変わったけど、それ以外はあまり変わっていないと思う。(港)
  • 「世の中が平和な状態」と「戦争や震災の状態」では、考えることが完全に異なると考えていて、実際3.11以降自分はそうなった。(畠山)
  • 全ての近代美術が平和の上に成り立っているとは考えていなかったが、311を境にやはりそう考えられなくなった。(畠山)
  • 震災から湊さんは福島、畠山さんは気仙沼に関わってきている(三木)
  • 会津の博物館と関わりがあったのも大きい。○○通りでの支援のためのWSなどを中心に写真ではない活動に関わることが多くなっている(港)

飯館ニュージアムについて(港)
⇨住めないならば、飯館自体をミュージアムにしてしまうのはどうか?
 ⇨自分にとって大切な物を持ってきてもらう

  • 安売りのチラシ、繭、鉄クズ、スズメバチを漬け込んだ焼酎。
  • スズメバチを漬け込んだ焼酎>ミツ蜂に刺された時に塗ると効く>飲むと内部からもっと効く>高じて放射能にも効く(謎)と持ってきたおじさんが言っていた
  • (飯館ミュージアムのチラシをみて)滝口修造を思い出した(畠山)
  • 廃墟すらなくなってくると、さらに寂しくなる。思い出す物がなくなる(畠山)
  • まで(い):丁寧(にモノを作ること?)(港)
  • (飯館ミュージアムは)量としては段ボール一箱程度に収まるので、建物を持たずに展示をすることができる
  • 記憶が増えて概念的なことを考える機会が減った(畠山)
  • 写真ってどう?(畠山)⇨大変だね(港)
  • 今回の「統合する力へ」のチラシの写真

 東北の写真。水が知識のようと石川さんに言われてこの写真に決めた(畠山)
 イスタンブールのデモの写真(港)

  • 公園をつぶしてショッピングモールにすることへの反対デモ。タクシムコミューン。これも一つの学びの場?PostItに支援のメッセージを書いて貼る→ソーシャルメディアで拡散
  • 大学の講演で呼ばれて行ったのに、教授も生徒も大学に居ない。事務局で、デモの広場に行けば会えますと言われて行ったら、3-4000のテントが張られていて、カェや図書館のようなものもあったり、映画祭も行われた(ところな)ので、リアルタイムで状況の配信などもやっていた。
  • これからはアートスクールではなく、NPOとかからアーティストが出てくるのでは?現にそういうことも起こり始めている(畠山)
  • メディアテーク、栞プロジェクト(港)
  • 震災後、撮った写真をどう使って行くかに興味がある(港)
  • 頼まれて撮って、せっかくなのでとプリントして渡してもリアクションが悪い。あんまり喜んでもらえない(畠山)
  • デジカメをスキャナー内蔵カメラだと思うとシックリきたので、そういう感覚で使っている(畠山)
  • IMIの頃、抽象的な講義の話も多かった

 「最後に撮るとしたら何を撮りますか?」
 「物質であったものが非物質化するとどうなるのか?」とか

  • コロンビアのボゴタで展覧会をしたいが予算がないので、高解像度データを送ってもらって展覧会をやりたい。いいプリントショップがあるので、そこでプリントをすれば輸送、関税(?)や保険の問題もなくなって、そのお金で畠山さんをコロンビアに招待出来る。⇨最終的には断った
  • 世界的にも最近はそういったかたちでの展覧会も多くなってきているらしい
  • 今は風景に没入して写真を撮っている。マミヤ7を愛用(畠山)
  • 機械のことについて考えずに済むカメラを使っている(畠山)
  • 記憶の反復をしている感じで実質ソーシャルとは接点がない(畠山)
  • 歴史とか文学のような別のメディウムと接している感じを受ける(畠山)
  • 技術とかテクノロジは写真を成り立たせているメディウムとして1%くらいしか意味がないと思う(畠山)
  • 写真を撮るという行為にこそ意味があると考えている(畠山)
  • 生徒には写真以外に夢中になれることが最低一つはあることが大切だと教えている(畠山)
  • ロバートフランク「フレームの中に写真を落としてその中のものを見るけど、真実はフレームの外にあるのでそれを見なければいけない」
  • 2/26,27 大雪の日。南相馬のおじちゃんおばちゃん達が、の40kgの米を集めておにぎりを使って、車で立ち往生している人達におにぎりを配って歩いた。車の中に寝ている人も窓を叩き起こして、むりやり渡した。その中に糖尿病の人がいて、もしおにぎりがなければ血糖値が下がって危なかったかもしれない
  • 配ったおばちゃん達はそれを聞いた時に、人を助ける側にまわれたことで自分達が助けられたとワンワン泣いた。→被災者ではない立場になれたこと?
  • 高齢者に関わると体を動かすことの大変さを感じる。階段を昇ることひとつをとっても体で行ったアクションには必ず何か体でのアクションが返ってくる
  • 自分が何を言っているのかを体で知る必要がある


2.いかにしてともに生き、ともに学ぶか バウハウスからTAZ…そして“コミュニタス”へ講演:伊藤 俊治

  • 今回のタイトルはロランバルトの死の直前の最後の講義をモジった。「いかにして共に生きるか?」
  • ギリシャ、アトスタンの修道院
  • トーマスマンの魔の山に出てきたサナトリウム

 →人と人が生活をともにする生きる形式。コミュニティの問題

  • コミュニタス:ヴィクターターナーの言葉
  • バルトが影響を受けた小説?ジャック・ラカリエール アトス島の話
  • ポール・バラン、インターネットの元はミサイル防衛技術。
  • TAZ:一時的自立ゾーン→移動生活集団
  • ハキム・ベイ:TAZ理論→ネットに蜘蛛の巣のように絡めとられたような感じ?サイキックノマディズム
  • ターナー:人類学者、コミュニタス論。社会を構築しているのは、コミュニティではなく、コミュニタスと深く結びついているのでは?
  • 社会的役割を捨てて、帰還する共生の空間→コミュニタス
  • 構造に対する反構造があるからこそ、構造化された社会が存在する
  • 巡礼というシステム。エクスポトという絵馬。途中でダンスをしたりする。→反構造的システム
  • 儀礼→共感である。ターナーが書いていた
  • 巡礼→ダンテが名付けた宗教化される以前の人間の生命の起源に向かう旅と考えていいと思う。生の始まりに戻って体験する
  • タリアセン:フランク・ロイド・ライトが作った学校。現存する。半期毎に移動。タリアセンは、ウィスコンティ州。タリアセン・ウェストはアリゾナ。元々はオカテイロというリゾートプロジェクトのための場所だったが、世界恐慌で計画が吹っ飛んだ。
  • フランク・ロイド・ライトの教授方法→教師と生徒という概念(関係)を全く信用していなかった。学生全員が畑仕事、ドラマ、ダンス、ディスカッションなど全てを通して学ぶ教育
  • 共意を前提にしたコミュニティアクト
  • バルト、コレージュ・ド・フランスの教授就任挨拶「これまで学んできたことを全て忘れ去ってしまいたい」
  • 自分達の生に何が欠けているのか?

 アート:自分の困難な状況を抽象的に捉え直させてくれるもの

  • 巡礼のようなテンポラリーな教育の形体を考えている

エリック・ギルについて

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 もう13,4年前の話。イギリスに行って、英語の勉強のために最初に読み切った本が、Eric Gill の『AN ESSAY ON TYPOGRAPHY』だった。興味のあるジャンルで、とりあえず挫折せずに読みきれるボリュームの本を探していて見つけた。モノとしても、その本がすごく気に入った。第2刷のフォトリトグラフで、紙の質感も良く、昔のプリント具合が再現されていて、新品だけど古本のような味わいがあった。ページごとの濃淡もバラバラだけど、そこがいい。

 中を読んで、内容にすごく共感した。タイトルはシンプルに AN ESSAY ON TYPOGRAPY だけど、内容はタイポグラフィ論だけにはとどまらず、ギルの思想が散りばめられている。余暇と労働、機械生産と手工芸、社会について、など色々。80年以上も前に書かれた本だけど、現代に当てはめて考えても為になることがたくさん書かれている。『AN ESSAY ON TYPOGRAPY』だけではなく、その後手に入れた『芸術論』『衣装論』『金銭と道徳』『活字とエリック・ギル(AN ESSAY ON TYPOGRAPY の全訳含)』など、Gill の本は自分の中でバイブルのようになっていて、気が向いた時にパラパラとめくる。

 最近『活字とエリック・ギル』をめくっていて「おっ」と思って下記をメモをした。

"Humane Typography will often be comparatively rough & even uncouth; but while a certain uncouthness does not seriously matter in humane works, uncouthness has no excuse whatever in the productions of the machine." (AN ESSAY ON TYPOGRAPHY)
人間主体のタイポグラフィは、粗雑で不格好かもしれない。だがぬくもりが感じられるものであれば、ある種のぎこちなさはかならずしも深刻な問題ではない。というより機械製品がどうであれ、不格好とかぎこちなさこそが、人間が唯一救われるおもいがするところである。(『活字とエリック・ギル』)

 ずっと「完璧ではないゆらぎの部分こそが、人の心に何か訴えかける」のではないか、ということに興味を持っている。GIll が言うように、人が作ることでモノに経験や葛藤が宿り、血が通うことに意味があると言うのは、話がつながっている。不格好さとかぎこちなさに救われるっていうのもすごくいいと思った。

 僕が Gill を好きなのは、あくまで「美しさ・神聖さ」を求めるスタンスを明確にした上で論じているところだ。商業印刷も(苦い気持ちは持っているけど)否定はせず良い点を認めようとしていて、ただ「タイポグラフィはこういうもの、こうあるべき」とは、読めないようになっている。美しいモノを作ること、産業化がいくら進んでも人間が手でモノを作りたいという意欲が失われる訳ではないこと、人の手で作り上げられたモノには機械生産品にはない人間性が宿り、そこに意味があるはずだということを主張する。

 利潤の追求を目的とした合理化・効率化で、従来型の人がやるべき労働はどんどん減ってきている。プログラム、インターネットサービスは、これから更に合理化と効率化を加速させるだろう。Gill は、小売店、ちいさな工房、仕事場や診察室のような産業革命前からの仕事には、余暇という発想はなく、仕事が生活で愛が寄り添う世界であったが、産業世界が労働と余暇を分けたと言っている。もちろん状況は変わっているけれど、従来型の人の労働が減っていく中で、どうやって社会を生きていけばいいのかというヒントが、Gill の本には書かれていんじゃないかと思う。Gill が世紀のド変態だったとしても、受けた影響はあまりに大きい。

評伝 活字とエリック・ギル

評伝 活字とエリック・ギル

An Essay on Typography: Penguin on Design (Penguin Modern Classics)

An Essay on Typography: Penguin on Design (Penguin Modern Classics)

色々考えて思い出すのはマイケル。

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 あまりに久しぶりだけど、ブログを更新してみる。さすがに1年近く書くこともないのはひどいので、もう少し書き残しておくようにしていこう。昨晩から考えたこと思ったことをメモ。

 Facebookを見ていたら、別々の友人が「テクノロジーが人間から仕事を奪ってしまう話(http://gigazine.net/news/20130809-how-tech-destroys-job/)」と「暑すぎる日に水を盗んだパレスチナ人と泣き縋る子供(http://972mag.com/arrested-for-stealing-water-on-the-hottest-week-of-the-year/974/)」の記事をシェアしていて、2つを交互に読んでいるとあまりに色々考えることがあって、インターネットの凄さとか恐ろしさを感じた。僕たちはこれほどまでの情報を瞬時に手に入れて、そのことに悩まないといけないのか。

 「テクノロジーが人間から仕事を奪ってしまう」ことの問題の根本は、「人は生きていくために仕事をしていかなければならない」という前提とか状況にあると思うんだけど、やっぱり話はうまくそっちへ行かない。人と人での関係でも、「仕事をしなければ生きていけない」という前提が流れを阻害する仕事を無理から作りだして、更に効率化を阻害している。富の再分配がうまく行われるようになれば、もう少しそういったストレスは減るんじゃないのか?

 会社とかの単位だと「適度に働いて満足して暮らせればいいと考えている人」と「もっとこうすれば良くなるはず、そのためにいっぱい働くことは厭わないと考えている人」を格差のない社会という前提をもとに並列で扱わないといけないから事態はややこしい。派遣制度とかって、週3日働けばそれなりに満足して生きていける社会に進めば、いい選択肢の制度だと思うんだけど、そういう流れにはうまく進まなかった。週3日働けばそれなりに楽しく生きれて、贅沢したければもう少し働けば?くらいの社会コンセンサスになれば、多くの人が幸せになると思うんだけどなぁ。人はまだ毎日働く必要があるの?

 パレスチナの貧困層の水の記事は、下のUPDATEによって更に難解な内容になっている。そもそも何を事実と受け取ればいいのか?イスラエルとパレスチナの水問題は確かに大きな問題なんだと思う。しかし、子供の映像が演出だとしたら、UPDATEが入る前に記事を読んでその印象を強く持ってしまった読者は、状況の事実を誤認していることになる。かと言って、UPDATEがどれだけ信憑性があるのかは僕には判断できない。結局入ってくる情報をもとに思考を巡らすと、新しい情報に根底をひっくり返されたりして、何に悩んでいるのかすらブレてしまいそうな感じすらする。

 イスラエルといえば、思い出すのはエルサレムの宿で出会ったマイケル。どこから来たのか聞き忘れたけど、安宿にラケット持ち込んで、ネットでテニスを教える仕事を探していたマイケル。「やぁ、俺はマイケルだ」「テニスを教える仕事をしている」「へー、エルサレムでそんな仕事が?」「ネットで探している」「えっ?」スキンヘッドのごついおっさん。ほんとにB級映画に出てきそうなキャラで圧倒されたけど、何かあの自分の思考から完全に外れたぶっ飛んだメンタルを羨ましく思ってほんとに癒された。たぶん普段とは全く違う文化やコミュニティの人達と出会う価値ってそういう部分だと思う。

 マイケルの写真を探して自分のタイムラインを遡っていたら、シェアしたけど見忘れていた「囚人のジレンマ」を応用したイギリスのテレビ・ショー"Golden Balls"が出てきたので見てみた(http://d.hatena.ne.jp/tictac/20120430/p1)。協調と裏切りの縮図。「俺は盗むを選ぶ」と主張するのは理不尽な主張のようだけど、ゲームに挑むに辺り出演者ニックなりの落とし所と考えて来たんだろう。


 何この脈絡のない投稿と言われるかもしれないけど、流れは紐付いていたり考えとしてはつながっていると思ってまとめて書いた。