統合する力へ アートと学びの場の未来
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Calo Bookshop & Cafe 10周年記念シンポジウム
日時:2014.3.15
場所:芝川ビル モダンテラス(芝川ビル4F)
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※個人的メモです。誤解釈や記憶違いがあることことはご理解の上
1.物質と記憶 -写真がつなげる世界-(対談:港千尋、畠山直也)
1986.4.26 チェルノブイリ原発事故
1996.4.26 港x畠山 IMI 第1回レクチャー 物質と記録
- 震災の数年後で、まだプロジェクタやデジタルビデオカメラもなかったところは現在と変わったけど、それ以外はあまり変わっていないと思う。(港)
- 「世の中が平和な状態」と「戦争や震災の状態」では、考えることが完全に異なると考えていて、実際3.11以降自分はそうなった。(畠山)
- 全ての近代美術が平和の上に成り立っているとは考えていなかったが、311を境にやはりそう考えられなくなった。(畠山)
飯館ニュージアムについて(港)
⇨住めないならば、飯館自体をミュージアムにしてしまうのはどうか?
⇨自分にとって大切な物を持ってきてもらう
- 安売りのチラシ、繭、鉄クズ、スズメバチを漬け込んだ焼酎。
- スズメバチを漬け込んだ焼酎>ミツ蜂に刺された時に塗ると効く>飲むと内部からもっと効く>高じて放射能にも効く(謎)と持ってきたおじさんが言っていた
- (飯館ミュージアムのチラシをみて)滝口修造を思い出した(畠山)
- 廃墟すらなくなってくると、さらに寂しくなる。思い出す物がなくなる(畠山)
- まで(い):丁寧(にモノを作ること?)(港)
- (飯館ミュージアムは)量としては段ボール一箱程度に収まるので、建物を持たずに展示をすることができる
- 記憶が増えて概念的なことを考える機会が減った(畠山)
- 写真ってどう?(畠山)⇨大変だね(港)
- 今回の「統合する力へ」のチラシの写真
東北の写真。水が知識のようと石川さんに言われてこの写真に決めた(畠山)
イスタンブールのデモの写真(港)
- 公園をつぶしてショッピングモールにすることへの反対デモ。タクシムコミューン。これも一つの学びの場?PostItに支援のメッセージを書いて貼る→ソーシャルメディアで拡散
- 大学の講演で呼ばれて行ったのに、教授も生徒も大学に居ない。事務局で、デモの広場に行けば会えますと言われて行ったら、3-4000のテントが張られていて、カェや図書館のようなものもあったり、映画祭も行われた(ところな)ので、リアルタイムで状況の配信などもやっていた。
- 震災後、撮った写真をどう使って行くかに興味がある(港)
- 頼まれて撮って、せっかくなのでとプリントして渡してもリアクションが悪い。あんまり喜んでもらえない(畠山)
- デジカメをスキャナー内蔵カメラだと思うとシックリきたので、そういう感覚で使っている(畠山)
- IMIの頃、抽象的な講義の話も多かった
「最後に撮るとしたら何を撮りますか?」
「物質であったものが非物質化するとどうなるのか?」とか
- コロンビアのボゴタで展覧会をしたいが予算がないので、高解像度データを送ってもらって展覧会をやりたい。いいプリントショップがあるので、そこでプリントをすれば輸送、関税(?)や保険の問題もなくなって、そのお金で畠山さんをコロンビアに招待出来る。⇨最終的には断った
- 世界的にも最近はそういったかたちでの展覧会も多くなってきているらしい
- 今は風景に没入して写真を撮っている。マミヤ7を愛用(畠山)
- 機械のことについて考えずに済むカメラを使っている(畠山)
- 記憶の反復をしている感じで実質ソーシャルとは接点がない(畠山)
- 歴史とか文学のような別のメディウムと接している感じを受ける(畠山)
- 技術とかテクノロジは写真を成り立たせているメディウムとして1%くらいしか意味がないと思う(畠山)
- 写真を撮るという行為にこそ意味があると考えている(畠山)
- 生徒には写真以外に夢中になれることが最低一つはあることが大切だと教えている(畠山)
- ロバートフランク「フレームの中に写真を落としてその中のものを見るけど、真実はフレームの外にあるのでそれを見なければいけない」
- 2/26,27 大雪の日。南相馬のおじちゃんおばちゃん達が、の40kgの米を集めておにぎりを使って、車で立ち往生している人達におにぎりを配って歩いた。車の中に寝ている人も窓を叩き起こして、むりやり渡した。その中に糖尿病の人がいて、もしおにぎりがなければ血糖値が下がって危なかったかもしれない
- 配ったおばちゃん達はそれを聞いた時に、人を助ける側にまわれたことで自分達が助けられたとワンワン泣いた。→被災者ではない立場になれたこと?
- 高齢者に関わると体を動かすことの大変さを感じる。階段を昇ることひとつをとっても体で行ったアクションには必ず何か体でのアクションが返ってくる
- 自分が何を言っているのかを体で知る必要がある
2.いかにしてともに生き、ともに学ぶか バウハウスからTAZ…そして“コミュニタス”へ(講演:伊藤 俊治)
→人と人が生活をともにする生きる形式。コミュニティの問題
- TAZ:一時的自立ゾーン→移動生活集団
- ハキム・ベイ:TAZ理論→ネットに蜘蛛の巣のように絡めとられたような感じ?サイキックノマディズム
- ターナー:人類学者、コミュニタス論。社会を構築しているのは、コミュニティではなく、コミュニタスと深く結びついているのでは?
- 社会的役割を捨てて、帰還する共生の空間→コミュニタス
- 構造に対する反構造があるからこそ、構造化された社会が存在する
- 巡礼というシステム。エクスポトという絵馬。途中でダンスをしたりする。→反構造的システム
- 儀礼→共感である。ターナーが書いていた
- 巡礼→ダンテが名付けた宗教化される以前の人間の生命の起源に向かう旅と考えていいと思う。生の始まりに戻って体験する
- タリアセン:フランク・ロイド・ライトが作った学校。現存する。半期毎に移動。タリアセンは、ウィスコンティ州。タリアセン・ウェストはアリゾナ。元々はオカテイロというリゾートプロジェクトのための場所だったが、世界恐慌で計画が吹っ飛んだ。
- フランク・ロイド・ライトの教授方法→教師と生徒という概念(関係)を全く信用していなかった。学生全員が畑仕事、ドラマ、ダンス、ディスカッションなど全てを通して学ぶ教育
- 共意を前提にしたコミュニティアクト
- バルト、コレージュ・ド・フランスの教授就任挨拶「これまで学んできたことを全て忘れ去ってしまいたい」
- 自分達の生に何が欠けているのか?
アート:自分の困難な状況を抽象的に捉え直させてくれるもの
- 巡礼のようなテンポラリーな教育の形体を考えている